東京高等裁判所 昭和37年(う)59号 判決 1962年5月30日
被告人 井上保世
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役四月に処する。
但し本裁判が確定した日から二年間右刑の執行を猶予する。
原審及び当審の訴訟費用は全部被告人の負担とする。
被告人らの本件控訴を棄却する。
理由
弁護人の控訴趣意について。
論旨第一点は、要するに本件公訴事実による出国の時期は、昭和二八年四月下旬頃から昭和三四年一二月上旬頃までの約七年間という長期間にわたるもので、しかもその間、昭和二八年四月下旬頃鹿児島港から漁船で出国した事案と昭和三四年一一月頃羽田空港から飛行機で出国した事案とを含んでいる本件の場合において右各出国の場所、方法も明示されていないことも加わつて本件公訴事実はその訴因が特定されていないため須らく本件公訴を不適法として棄却すべきであるにかかわらず、これを適法として審判した原審の訴訟手続には判決に影響を及ぼすべき法令の違反があつて、原判決は破棄を免れないという趣旨に帰着する。
よつて本件起訴状を見ると、被告人が出国した時期を昭和二八年四月下旬頃から昭和三四年一二月上旬頃までの約六年有余にわたる長期間をもつて表示し、しかも出国の場所、方法についての記載もないことは、まことに所論のとおりである。しかし原審弁護人の要求に基く原審公判廷における検察官の釈明によれば、本件起訴の対象は被告人が昭和三四年一二月一五日オランダ船ギーゼントカーク号で帰国する原因となつた出国にあるのであるから、右出国の時期は客観的に自ら特定しているものといわなければならない。けだし一つの帰国の原因たる出国は一つあつて二つないことは、まことに見易い道理である。いうなれば所論の昭和三四年一一月頃羽田空港から飛行機で出国した事実が本件起訴の対象になつているのであつて、所論の昭和二八年四月下旬頃鹿児島港から漁船で出国した事実は本件控訴の範囲に入つていないことが明白である。さすればこの種事犯について出国の時期、場所及び方法を具体的に特定することは殆んど不可能に近い特殊事情を考慮すれば、本件公訴事実の訴因は、原審検察官の釈明と相俟つて不完全ながら他の訴因との識別をなし得るは勿論、被告人の防禦権の行使にも格別の支障を及ぼさないものと認めるのが相当である。これを要するに被告人の防禦に実質的な不利益を及ぼす虞れのない限り、よしんば出国の日時、場所及び方法を具体的に特定することが困難な特殊事情があるため訴因としての記載に缺けるところがあつたとしてもかかる訴因の記載の不備をもつて直ちに起訴の不適法を招来するものではないと解するのが相当である。さすれば本件公訴を適法としてなされた原審の訴訟手続には何ら違法の虞はないから、論旨を採用して原判決破棄の理由とはなし得ない。
論旨第二点は、結局出入国管理令及び旅券法が憲法第二二条に違反し無効であることを前提として、被告人の本件行為は犯罪を構成しないとして原判決を攻撃するに尽きる。
しかし原判決が被告人の本件所為に対し適用処断した出入国管理令第六〇条第二項、第七一条の規定が憲法第二二条第二項に違反しないことについては、既に最高裁判所大法廷の判例の趣旨とするところであるから(昭和二九年(あ)第三八九号、同三二年一二月二五日判決参照)所論はその前提を缺くばかりでなく、旅券法第一三条第一項第五号の規定が合憲である点についても既に最高裁判所大法廷の判例の存するところである(昭和二九年(オ)第八九八号、同三三年九月一〇日判決参照)。従つて論旨は理由がない。
論旨第三点は要するに本件公訴の時効が完成していることを強調して、被告人に免訴の裁判をしなかつた原判決の破棄を求めるにほかならない。
しかし刑事訴訟法第二五五条第一項は、犯人が国外にいる場合にはその国外にいる期間、時効の進行を停止する旨を規定していて、単に犯人が国外にいるという客観的な事実のみをもつて無条件に時効停止の事由としていることが明らかである。それは犯人が国外にいる場合は、国内にいる場合に比し、犯人の追求その他証拠資料の収集等に困難を極めることは想像に難くないばかりか、時には犯罪または犯人を探知することさえ至難なこともあることに想到すれば、かかる規定を設ける理由を充分理解することができるのである。さすれば犯人が国外にいるだけで当然公訴時効の進行がその国外にいる期間停止するものと解するのが最も合理的で且つ文理上も自然な解釈であつて、所論のように「犯人」を犯罪者であることが訴追機関によつて覚知せられたものと解すべき法文上の根拠はないし、また時効制度上からも所論のように解釈しなければならない合理的根拠を発見することができないのである。果して然らば本件の場合において被告人が昭和三四年一二月一五日オランダ船ギーセントカーク号で帰国するまで引続き国外にいたことは証拠上疑いのないところであるから、その間被告人に対する公訴の時効は停止していたものと認めざるを得ないので、本件公訴が提起された昭和三四年一二月二五日当時、被告人が帰国後進行を開始した時効が完成していなかつたことは勿論である。所論は独自の法律解釈に立脚して適法になされた原判決を非難するものにほかならない。よつて、論旨は採るに足らない。)
(その余の判決理由は省略する)。
(本件は量刑不当で破棄)
(裁判官 小林健治 松本勝夫 太田夏生)
(別表略)